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【書評】アートっておもしろい!『13歳からのアート思考』末永幸歩

じんじょ
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こんにちは じんじょ(@jinjolifeshift) です。

今回は、「アートって、こんなにおもしろかったんだ!」というアハ体験が得られた書籍『13歳からのアート思考』をご紹介します。

この記事では本書から学んだ、
アートの奥深さ
作品の鑑賞方法
を説明します。

目次

ピカソ?落書きみたいな絵を書く人でしょ…

「ピカソ?あぁ、あの落書きみたいな絵を描く人ね…」

稀代の天才画家に大変失礼ではありますが、わたしのアートに対する理解はこの程度。美術館と呼ばれるような場所に行ったのも、人生で数えるほどです。

感性、直感、クリエイティビティ、発想力、創造性、、、自分は、これらの言葉とは縁遠い人間だと思っていました。一種の食わず嫌いです。

こうした認識を一掃し、あたらしい地平を切り開いてくれたのが『13歳からのアート思考』。本書はわたしに、まだ「知らない世界」との出会いをもたらしてくれました。まさに、読書の醍醐味です。

著者の末永幸歩さんは、中学・高校で美術の先生をされているそうです。本書は、学校での授業がベースとなっていることから、読者との対話形式で構成されています。上手に読者を巻き込みつつ、学校先生らしい飽きさせない工夫が随所に盛り込まれています。

タイトルにある『13歳からの』は、「美術嫌い」が急増してしまう中学まで時間を巻き戻し、読者のアートに関する思考をアップデートしたい、という願いが込められているそうです。

話題の書として、書店で何度も目にしていましたが、やっと手に取ることができました。こちらの書籍を読めば、「なぜピカソが天才と称されるのか?」その理由がわかります。

わたしが感じた、本書からの大きな学びは以下の2点です。

❶ 美術史を知ることでわかるアートの奥深さ
❷ 芸術作品を自由に鑑賞をする方法

以下、順番に解説をしていきましょう。

カメラの登場によって揺らいだ「アート」の存在意義

そもそも、アートの始まりはいつになるのでしょうか?

現代アートがその原型を受け継ぐ西洋美術は、14世紀からはじまるルネサンスの時代に確立されました。当時、「画家」という職業のイメージは、われわれが今日思い描くそれとは大きく異なるものだったそうです。

ルネサンス時代の画家は、「アーティスト」というよりも「職人」に近い存在でした。彼らは、注文に応じて家具をつくる職人と同じように、教会やお金持ちに雇われ、依頼された絵を書く仕事をしていました。

そして、教会やお金持ちからのニーズが高かったものが、「宗教画」と「自画像」。教会は、文字が読めない庶民にキリスト教を広めるために、お金持ちは、自分の権威や権力を誇示するために、画家に絵を描くことを依頼します。

こうした時代において、絵画の価値は「写術的な描写力」によって決まりました。聖書の世界観をありありと写し出す「宗教画」、人物の存在感を力強く描く「自画像」、いずれにおいても絵画に求められていたことは “リアリティ”。つまり、目に映るとおりに描かれた絵こそが、アートの「正解」だと考えられていたのです。

19世紀、こうしたアートの存在意義が、根本から覆される大事件が起こります。それが、「カメラ」の登場です。どんなに熟練した技術をもってしても、「写術的な描写」においてカメラの右に出るものはいません。アートは、それまでに築いてきた地位をあっさりと明け渡しました。

「カメラが登場したいま、アートの意義とは何なのか?」

こうした危機的とも思える境遇は、結果として、アートの可能性を大きく羽ばたかせることになります。ピカソを始めとした先鋭的な数多くのアーティストが、次々とそれまでの常識を覆し、今日までにアートの領域を拡大させてきたのです。

ピカソ『アビニヨンの娘たち』のテーマは「リアリティ」

さて、ここで、冒頭で「落書き」と言ってしまったピカソの代表作をご紹介しましょう。『アビニヨンの娘たち』という作品です。

この絵は前述したとおり、カメラの出現によって、絵画の存在意義が揺らぎはじめた時代に生み出されました。

アビニヨンの娘たち パブロ・ピカソ

「やっぱり、落書きにしか見えない…」

こんな声が聞こえてきそうですが、改めて、なぜこの絵が革新的だったのか?なぜ、ピカソが天才と称されるようになったのか?

それは、『アビニヨンの娘たち』が、「遠近法による写術的な描写」という絵画唯一の正解に、初めて疑問を投げかけるものだったからです。この絵を描いたとき、ピカソ本人の興味の種は、「リアリティの追求」にありました。

「この絵のどこがリアルなのか?」

と、感じる方が大勢いらっしゃるかと思いますので、以下、少し別の例を使って説明させてください。

「四角い頭を丸くする」さながら、いかにわたし達の思考が固定観念に囚われてしまっているか、を感じることができるはずです。

遠近法は「半分のリアル」しか描けない

ここで一つ、お題を出したいと思います。

サイコロを描いてください

いかがでしょうか?

実際に手を動かされた方も、そうでない方も、おそらくすべての方が解答例のようなイラストを思い描いたのではないでしょうか?

ちなみに、こちらのイラストはアプリを使った画像加工です。悪しからず…

解答例のイラストは、文句のつけようがないサイコロに思えます。しかし、こうした遠近法で描かれた絵は、本当に「リアル」なサイコロを表現できていると言えるのでしょうか?

実際のところ、このイラストは、本当のサイコロの「半分のリアル」しか写し出すことができていません。その原因は、遠近法の弱点、「視点が一つに限定されてしまう」ことにあります。この絵は、描かれていない反対側のサイコロの実像について、何も語り得ないのです。

「いやいや、表に見えているのが4、5、6の目なのだから、反対側は1、2、3に決まっているよ」

本当にそうでしょうか?それはあくまで、一般的なサイコロの知識に基づく「推測」に過ぎません。実は、裏側には目が一つもないかもしれませんし、10個ある可能性だってゼロではないのです。

ピカソが発明した新しいリアリティの表現法「多視点の再構築」

このように、われわれが無条件で受け入れてしまっている遠近法によるリアリティは、決して完全無欠のものではありません。

ピカソは、遠近法による「リアルさ」を疑いました。わたしたちの3次元の世界を表すのに、より適した「リアルさ」の表現はないものだろうか?

こうした問いに対する一つの答えが、『アビニヨンの娘たち』に描かれている「多視点の再構築」なのです。

『アビニヨンの娘たち』の不可思議な描写は、さまざまな視点から認識したものを1つの絵画に写し出していることから生じています。

たとえば、中央の女性の顔は正面を向いていますが、鼻の形は真横から見たもののようです。顔や体の色が突如切り替わっているところがありますが、これはさまざまな方向から見たときの陰影を組み合わせていると考えることができます。

この絵画を通して、ピカソはわれわれに、「リアルさ」を描くための方法が唯一つに限らないことを語りかけてきます。

写真ではなく、絵画だからこそできること。

カメラ出現以降のアーティストは、ピカソのように、それまでの常識を覆す発想をもって、アートを新たな領域へと導いてきました。アートは、過去の固定観念へのアンチテーゼとともに、発展を遂げてきたのです。

「アートっておもしろい。」

生まれて初めてこう感じました。きれいだな、美しい、上手、、、それまで感じたことのある、どれとも違う感情。今まで表面的にしかアートを鑑賞できていなかったことを痛感し、ひどくもったいないことをしてきたように思いました。

「ピカソがなぜ天才と呼ばれるのか」、その理由はおわかりいただけましたでしょうか?

こうした歴史的な背景や、絵画の裏側にあるアーティストの探究心を踏まえた上で作品を見ると、その奥深さをより色濃く感じられるのではないでしょうか。

本書では、ピカソも含めた6人のアーティストが登場します。彼らがどのようにしてそれまでの常識を打ち破り、アートの可能性を切り開いてきたのか。非常にわかりやすく、大変興味深い美術史のお話が盛りだくさんです。ご興味のある方は、ぜひご自身でお確かめください。

本書もう一つの醍醐味:アート作品の鑑賞方法

冒頭でご紹介したとおり、本書の醍醐味はもう一つあります。それは、アート作品の鑑賞方法です。

前述のピカソに関する説明を聞き、「『アビニヨンの娘たち』の正しい鑑賞法がわかった!」と思われた方もいらっしゃるかもしれません。しかし、末永先生は、「こうした解釈を唯一の正解とは思わないでほしい」と念を押します。

絵画の鑑賞方法には、以下の2つの方法があります。

  1. 背景とのやり取り
  2. 作品とのやり取り

①背景とのやり取り、とは、時代背景や歴史的な経緯、作者の思想などを踏まえた鑑賞方法です。まさしく、これまで『アビニヨンの娘たち』について説明してきた内容が該当します。

一方、②作品とのやり取り、は、見る人が自由に作品を感じ取り、解釈し、楽しむための方法です。

末永先生は、それぞれの鑑賞法には違った良さがあり、①だけではなく、②も合わせた両方が、アートをより充実させ、豊かなものにしてくれると考えているそうです。

「絵画を自由に鑑賞するって言っても、どうやればいいか、、、」

と感じている方も、安心してください。

じんじょ
じんじょ

音楽の例え話が非常に秀逸なので、説明に使わせていただきましょう。

われわれは、テレビから流れてくる懐かしいメロディを聞いて、かつての青春時代に思いを馳せ、感傷に浸ることがあります。結婚式のBGMを耳にして、思わず涙ぐむ場面もあるでしょう。音楽が、落ち込んだ気持ちに活力を与えてくれることもあります。

これは、決して①の鑑賞方法ではありません。作曲家の青春と、メロディを聞いてあなたが思い描いた、あなた自身の青春はまったくの別物です。結婚式であなたを涙ぐませる思い出は、あなただけのものです。音楽から得られる活力は、人によって、場面によって、時代によって様々でしょう。

そう、音楽に関しては、特段意識をすることなく、②作品とのやり取り、に基づく鑑賞法を普段から実践できているのです。

こう聞くと、絵画についてもなんだかできそうな気がしてきませんか?

本書は、②の方法で絵画を鑑賞するために、以下のようなヒントが提示されています。

  • 感じたことと、描かれている事物を言語化する方法
  • 批評家目線でのダメ出し
  • 絵画から感じたことを100文字でストーリー化

試しに、一つ目の「言語化する方法」を『アビニヨンの娘たち』で実践してみましょう。

「なんか、変な絵だなぁ。」

「この絵のどこにそう感じたのだろう?」

「体のラインがやたらカクカクしてるし、バランスがおかしい気がする。腕も変なところから生えてたり、体の色があるところから突然変わったりしてるし。」

「少し怖い感じもする。」

「なぜそう思ったのだろう?」

「みんな顔の表情がないというか、目がギョロッとしていて温かみがないというか。右側の人たちは仮面をつけているみたいだし。」

と、こういった感じです。

全然むずかしくなさそうですよね。

いかがでしたでしょうか?

「わたしも、こんな美術の授業を受けてみたかったなぁ」という方でも、この一冊を読めば今からでも間に合います。生徒に語りかけるようなやさしい文章で、スラスラと読めてしまう、多くの方にオススメできる一冊です。

改めて、「アート」って何なのだろう?答えはわからずじまい、末永先生からの「アート思考」の宿題か

わかりやすくて、非常におもしろい本書なのですが、読了後、一つ、もやもやした感情がわたしの中に芽生えました。

「改めて、アートって何なのだろう?」

著者は、以下の3つの行動を「アート思考」と称し、「アート思考」ができる人たちを「アーティスト」と定義付けています。

  1. 「自分だけのものの見方」で世界を見つめ、
  2. 「自分なりの答え」を生み出し、
  3. それによって「新たな問い」を生み出す

ピカソは、自分なりの「リアリティ」を追求した結果、「多視点の再構築」という彼なりの答えを生み出し、世の人に「リアルさ」という問いを投げかけました。まさしく、稀代の「アーティスト」というわけです。

一方の「アート」に関しては、ピカソを始めとした天才的なアーティストによる革命で、その概念は時代を経るごとに、次々と塗り替えられていきました。

本書のエピローグで末永先生は、

「これがアートだというようなものは、ほんとうは存在しない」

と、歴史家・美術史家エルンスト・ゴンブリッチの言葉を引用しています。

アーティストは存在し、アートは存在しない

何やら禅問答のような、狐につままれたような結末です。

アート(art)に対応する日本語の「芸術」という言葉は、日本大百科全書(ニッポニカ)で以下のように説明されています。[1]

作品の創作と鑑賞によって精神の充実体験を追求する文化活動。

日本大百科全書(ニッポニカ)

「精神の充実活動」とは言い得て妙です。優れたアート作品が、われわれの心に語りかけ、影響力を及ぼすことは、ピカソの事例を思い浮かべれば至極納得のいくものでした。

もともとアート(art)という言葉は、ラテン語のアルス(ars)、テクネー(techne)に由来し、「学問」と「技術」の2つの意味を内包していたといいます。後者の「技術的な側面」に関する記述は、『13歳からのアート思考』にはまったく登場しませんが、わたしもアートを規定する大切な要素の一つであるように感じていました。

『最後の秘境 東京藝大:天才たちのカオスな日常』という書籍に登場する藝大生たちは、様々な技巧を駆使して作品を作り上げています。先人が積み上げてきた数多くの技術や知恵の結晶としての「アート作品」という捉え方は、ある意味で学問的な香りを漂わせます。

「技術」と「学問」、アートの本質を掴むためのキーワードを手に入れたかに思えたのも束の間、前述の百科事典でも、その結論ではお茶を濁されてしまいました。

芸術概念そのものが歴史的に変化しており、一義的に定めることは不可能

日本大百科全書(ニッポニカ)

残念ながら、「アートって何なのだろう?」というわたしのもやもやした感情は行き場をなくしてしまいました。

時代とともに「言葉」の意味が移り変わりゆくことは世の常です。しかし、「アート」という言葉は、それ自体がもつ意味合いから、ことさら変化に対して寛容性をもつ、特殊な概念であるように感じます。

この疑問は、末永先生が「わたしなりの答えを見つけなさい」と課した「アート思考」の宿題なのでしょうか。

いつか自分なりの答えを見つけてみせると胸に刻みつつ、この記事を締めくくりたいと思います。

じんじょ
じんじょ

最後までお読みいただきありがとうございました。

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わたしは本書を読んで、アートに対して強く興味を惹かれました。近いうちにぜひ美術館にも足を運んでみようと思います。

[1] 芸術 コトバンク

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